『アルツハイマー征服』
本書は海外のノンフィクションベストセラーにも引けを取らない代物だ。
著者は、アルツハイマー病に関わった日・米・欧の大勢の関係者から、驚くほどの深さのエピソードを引き出している。
研究者人生を賭けた新薬開発の現場、虚偽や捏造が入り混じった科学の世界、そして、長く苦悩に満ちた患者らの人生‥。
その壮大なテーマを言葉巧みに操りながら、アルツハイマー病のメカニズムまでも読者に理解させてくれる。
まさにアルツハイマーを知るには、この1冊を読めば十分と言っていいだろう。
アルツハイマー病の治療薬候補としてはアデュカヌマブが注目されている。
治療薬として承認されれば、アデュカヌマブは、アルツハイマー進行の時計の針を逆向きに作用させる、世界初の薬となるかもしれない。
まさに世界が注目する治療薬であり、現時点では、2021年6月に審査終了となる見通しである。
そして、このアデュカヌマブ開発に大きく貢献しているのが、本書でも主要に取り上げられている日本の製薬会社エーザイだ。
本書を読むことで、この世界を救うかもしれない治療薬誕生のニュースの裏側を知ることができるだろう。
新薬開発の裏には多くのドラマがある。
それは、多くの世界的な製薬企業が巨額の資金と長い年月を開発に投じているからだ。
本書の舞台である1980年代当時でも、探索研究から商品として流通させるまでに平均13.5年と、150億円もの費用がかかったとされている。
そして、1人の研究者に焦点をあてた場合、多くの研究者は、入社から定年まで市場に流通する商品を一つも開発できずに社を去っていくという。
そんな中、本書では、在社中にふたつも新薬を当てた研究者として、エーザイの杉本という研究者が紹介されている。
しかし、何も栄光に満ち溢れていた研究者人生だったというわけではない。
本書を読めば、時には研究者職から追放され、苦渋を舐めながらも達成した偉業だったことがよく分かる。
ドラマがあるのは、企業の研究者だけではない。
アルツハイマー病の解明には、多くの科学者が携わってきた。
中でも、大きな貢献を果たしてきたのは、欧米の科学者たちだ。
本書でも数多くの科学者が紹介されており、中には自身もアルツハイマー病を患いながら偉大な功績を残した研究者も存在する。
だが、一転して、時には不正を働いた研究者も存在する。
日本でも、研究データを捏造したとしてある研究者が凶弾に立たされたが、なぜ科学者がそのような不正に走るかは、本書でも触れられている。
例えば、世界的な科学論文誌「ネイチャー」では、投稿された95%近くが掲載不可としてリジェクトされる。
残った5%がレフリーと呼ばれる査読者に回され、そのレポートを元に編集者が判断し、問題なければ晴れて掲載される。
世界的な論文誌に掲載されれば、それだけ多くの研究室が一斉に追試を行うことになるため、厳しく再現性が問われることになる。
では、なぜこうした厳格なステップがあるはずなのに不正が起こってしまうのか?
それは、査読者は、論文で提示されているデータが真正のものとして、論文を読んでいるからだという。
本書で紹介されているケースでは、マウスの細胞としているデータが人間の細胞と入れ替えられていた。
こうした「捏造の罠」は、科学界で競争が激しくなればなるほど問われてくる。
これは、論文だけではなく、新薬の開発においてもそうだ。
本書では、当事者がどのようなプレッシャーと闘っているかが伝わってくる。
著者は、「医療部」や「経済部」などの特定の分野を取材している記者ではなく、メディア関係の著作で知られる人物だ。
そんな著者は、「科学は科学として独立して存在するわけではない」と語り、約18年もの年月をかけて本書を完成させた。
まさに科学だけではなく、企業や経済の論理に左右される人間の息遣いが伝わってくる内容だ。
気候変動を描いたチェンジング・ブルーという本がある。
こちらも日本人によって書かれたサイエンスノンフィクションだ。
多くの読書家に傑作と呼ばれている本であるが、本書もサイエンスノンフィクションとして最高の仕上がりになっている。
普段サイエンス本には手を出さない方にも、最初の一冊としておすすめである。