『アルツハイマー征服』
本書は海外のノンフィクションベストセラーにも引けを取らない代物だ。
著者は、アルツハイマー病に関わった日・米・欧の大勢の関係者から、驚くほどの深さのエピソードを引き出している。
研究者人生を賭けた新薬開発の現場、虚偽や捏造が入り混じった科学の世界、そして、長く苦悩に満ちた患者らの人生‥。
その壮大なテーマを言葉巧みに操りながら、アルツハイマー病のメカニズムまでも読者に理解させてくれる。
まさにアルツハイマーを知るには、この1冊を読めば十分と言っていいだろう。
アルツハイマー病の治療薬候補としてはアデュカヌマブが注目されている。
治療薬として承認されれば、アデュカヌマブは、アルツハイマー進行の時計の針を逆向きに作用させる、世界初の薬となるかもしれない。
まさに世界が注目する治療薬であり、現時点では、2021年6月に審査終了となる見通しである。
そして、このアデュカヌマブ開発に大きく貢献しているのが、本書でも主要に取り上げられている日本の製薬会社エーザイだ。
本書を読むことで、この世界を救うかもしれない治療薬誕生のニュースの裏側を知ることができるだろう。
新薬開発の裏には多くのドラマがある。
それは、多くの世界的な製薬企業が巨額の資金と長い年月を開発に投じているからだ。
本書の舞台である1980年代当時でも、探索研究から商品として流通させるまでに平均13.5年と、150億円もの費用がかかったとされている。
そして、1人の研究者に焦点をあてた場合、多くの研究者は、入社から定年まで市場に流通する商品を一つも開発できずに社を去っていくという。
そんな中、本書では、在社中にふたつも新薬を当てた研究者として、エーザイの杉本という研究者が紹介されている。
しかし、何も栄光に満ち溢れていた研究者人生だったというわけではない。
本書を読めば、時には研究者職から追放され、苦渋を舐めながらも達成した偉業だったことがよく分かる。
ドラマがあるのは、企業の研究者だけではない。
アルツハイマー病の解明には、多くの科学者が携わってきた。
中でも、大きな貢献を果たしてきたのは、欧米の科学者たちだ。
本書でも数多くの科学者が紹介されており、中には自身もアルツハイマー病を患いながら偉大な功績を残した研究者も存在する。
だが、一転して、時には不正を働いた研究者も存在する。
日本でも、研究データを捏造したとしてある研究者が凶弾に立たされたが、なぜ科学者がそのような不正に走るかは、本書でも触れられている。
例えば、世界的な科学論文誌「ネイチャー」では、投稿された95%近くが掲載不可としてリジェクトされる。
残った5%がレフリーと呼ばれる査読者に回され、そのレポートを元に編集者が判断し、問題なければ晴れて掲載される。
世界的な論文誌に掲載されれば、それだけ多くの研究室が一斉に追試を行うことになるため、厳しく再現性が問われることになる。
では、なぜこうした厳格なステップがあるはずなのに不正が起こってしまうのか?
それは、査読者は、論文で提示されているデータが真正のものとして、論文を読んでいるからだという。
本書で紹介されているケースでは、マウスの細胞としているデータが人間の細胞と入れ替えられていた。
こうした「捏造の罠」は、科学界で競争が激しくなればなるほど問われてくる。
これは、論文だけではなく、新薬の開発においてもそうだ。
本書では、当事者がどのようなプレッシャーと闘っているかが伝わってくる。
著者は、「医療部」や「経済部」などの特定の分野を取材している記者ではなく、メディア関係の著作で知られる人物だ。
そんな著者は、「科学は科学として独立して存在するわけではない」と語り、約18年もの年月をかけて本書を完成させた。
まさに科学だけではなく、企業や経済の論理に左右される人間の息遣いが伝わってくる内容だ。
気候変動を描いたチェンジング・ブルーという本がある。
こちらも日本人によって書かれたサイエンスノンフィクションだ。
多くの読書家に傑作と呼ばれている本であるが、本書もサイエンスノンフィクションとして最高の仕上がりになっている。
普段サイエンス本には手を出さない方にも、最初の一冊としておすすめである。
『トポロジカル物質とは何か』
「トポロジー」とは、物に切れ目を入れたり穴をうめたりせずに連続的に形を変えたときに、変形の前後で変わらない性質のことを言う。
さて、このように説明されてすぐに理解できる人が世の中にどれくらいいるだろうか。
本書は、この「トポロジー」という難解な性質を持った物質、その名もトポロジカル物質について書かれた本である。
だが、身構える必要はない。
本書は、トポロジカル物質をはじめ、物質が持つ脅威的な性質について、わかりやすく魅力的に語られた本と言った方が適切であるからだ。
世の中の物質には神秘が溢れている。
私たちが日々何気なしに使っているパソコンでさえ、人類の叡智が詰まっていることは言うまでもないだろう。
皆さんは、このパソコンが生まれるまでに、一体いくつもの発見や発明が積み上げられてきたか想像できるだろうか?
その発見や発明の多くがノーベル賞を受賞してきた。
「巨人の肩の上に立つ」というのは、こうした科学発明の連鎖を示して使われた、ニュートンの言葉だ。
トポロジカル物質を理解するには、この連鎖を理解しなければならないわけだが、
本書はたった100ページほどで、数式や物理を理解していない読者を、わかったような気にさせてくれる魔法のような本だ。
それでは、さっそく皆さんにも魔法の一端をお見せしよう。
先ほどパソコンを引き合いに出したが、パソコンのような情報機器になくてはならないのが、「トランジスター」である。
トランジスターとは、電圧や電流の微弱な変化を、大きな変化に拡大するデバイスのことだ。
このトランジスターのおかげで、電流を流したり電流を切ったりする、いわゆるスイッチ作用が容易となり、コンピュータは脅威的な速さで計算することが可能となっている。
では、私たちが使うパソコンの中に、一体いくつのトランジスターがあるか想像できるだろうか?
3000メートルを越す富士山を1センチメートル四方のフィルムに記憶できる写真技術を思い出せばいいでしょう。ただ、集積回路で使われる写真技術は、普通の写真よりはるかに高精細な写真なのです。例えて言うのなら、富士山全体の写真を撮ったとき、登山道を登っている登山者一人ひとりの顔まで写っているほど、高繊細な写真技術を利用して、その写真に集積回路を縮小して写し込みます。
少々長い引用になったが、数字で語られるよりも、はるかにわかりやすいはずだ。
超物質の世界は、非常にミクロであるか、逆にとんでもなく大きい対象を扱うことが多い。
専門家ではない私たちには想像できるということが大切なのだ。
もう1つ紹介しよう。
それは超伝導体と呼ばれる物質だ。
超伝導体とは、電流が電気抵抗ゼロで流れる物質で、電圧をかけなくても電流が流れる。
これだけだとピンとこない方もいるかと思うので、補足すると、例えば、パソコンやスマートフォンをしばらく使っていると、
誰でも本体が熱くなっていることに気づくことがあるはずだ。
これは、パソコンやスマートフォンに流れる電流が、電気抵抗を受けて発生するジュール熱である。
要は、抵抗を受けて消費してしまう、エネルギーの損失のことだ。
超伝導体は、この電気抵抗が全くないので、電流を流してもジュール熱が全く発生しない、まさに夢のテクノロジーなのだ。
しかし、この超伝導は、マイナス何百度という極限状態でしか実現ができないとされている。
現在は、室温でも実現できないか研究が進められており、トポロジカル物質は、この研究にも大きな功績を残すと言われている。
本書には、この超伝導体についても詳しく説明されている
さて、トポロジカル物質にも少し触れようと思ったが、本書の前半に書かれている内容に終始してしまった。
もちろん、これでも紹介できたのはまだまだ一部でしかない。
本書の前半だけでも、引用したい文章や、興味深い知識がこれでもかと詰め込まれている。
しかし、それでもメインディッシュは後半のトポロジカル物質の内容というのが、もう驚きでしかない。
こんなに紹介したい内容が満載な本は他にないと思う。ぜひ手に取って読んでほしい。
『RANGE(レンジ)』
人間の最大の強みは、狭い範囲への専門特化とは正反対のものだ。幅広く情報や知識を統合することこそが、人間の強みだ
AIの登場により、高度に専門化したエリート達でさえ、AIに代替される可能性が出てきた。
一方で、AIの登場は、機械には不得意だが、人間には得意である能力について浮き彫りにしたとも言える。
人間が得意とするのは、狭い範囲への専門化とは真逆のものである。
人間は、幅広く情報を集め、それぞれについて大まかに把握し、それらを状況に合わせ統合していくことを最も得意とする。
しかし、現代では、ビジネスでも、研究開発でも、大学教育でも、スポーツでも、さらには幼児教育でも、分野を狭い範囲に絞って深掘りする「専門化」がもてはやされるようになっている。
我々がよく耳にする成功への方法ー 「早期教育」「一万時間の法則」「グリッド」は、全て専門化を目指したプロセス・方法に過ぎないのだ。
本書は、複雑性が増す現代において、そのような言葉に惑わされ、不必要な努力に多くの時間を費やしている現代人に警鐘を鳴らす一冊だ。
本書の主張はシンプルだ。
その主張とは、「ゆっくり専門を決めることこそが成功のカギ」であるということだ。
このように書くと、ある種の反論が数多く挙がってきそうである。
言うまでもなく、幼いころから高度に専門化することで、成功を収めてきた人物は数えきれない。
しかし、「幼少期に専門特化する」=「成功」という論理には、あまりにも多くの反例、つまりそうではない成功者が数多く存在する。
そして、近年では、多くの分野に精通し知識と経験の「幅<レンジ>」のある人の方が成功しやすいことが、様々な調査や学術研究で裏付けられている。
本書には、ゴッホやダーウィン、ジョブズといった、紆余曲折を経て成功を収めた人々の事例が数多く挙げられる。
彼らのような遅咲きの成功者は、自分は例外的存在で、普通ではあり得ない道を辿っていると思っている。
しかし、本書を読めば、決して常識の道から外れるのは異常ではなくて、「当たり前」であることがお分かりになるだろう。
ではなぜ多くの人々が、「早期教育」「一万時間の法則」「グリッド」という言葉をいとも簡単に受け入れてしまうのか。
おそらくこの学習方法が一番成長実感が得やすいからなのだろう。
それもそのはずで、学習する過程で、的確なフィードバックを受ける環境の方が、より多くの課題へと進むことができて、熟達度も上がる。
しかし、問題は、そうした親切とも呼べる学習環境は、世の中で非常に稀でしかない。
本書によれば、スポーツの世界においてさえ、親切な学習環境というのは稀で、ほとんどはそうでないことが多いという。
では、その他大勢の環境を”意地悪な環境”と仮定したとき、我々にはどのような修練が必要となるのだろうか。
これも本書に答えがある。
スポーツの世界では、幼少期に幅広いスポーツを体験した”体験期”を持つ人の方が、その後成功を収めることが多いそうだ。
現代で成功したいのであれば、専門化を急ぐより、多くの経験を重視した方が良い。
最良の学びの道はゆっくりとしたもので、あとで高い成果を上げるためには、今出来がよくないことが不可欠だ。しかし、この事実を受け入れるのは難しい。
例えば、数学の学習において、テストで良い点を取るためには、数多くの問題を解けばいいだろう。
しかし、学習した公式について、その成り立ちや意味までをも追求し、しっかりと理解しようとするならば、問題を練習する時間は少なくなる。
このような賢明な生徒は、必ずしも前者の生徒よりいい点は取れないかもしれない。
何より、多くの問題をこなし、尚且つ、テストでいい点を取ることができるのなら、その方が満足度は高いわけで、生徒をそう導く教師も多いはずだ。
しかし、これを先程の”親切な環境”と”意地悪な環境”に当てはめた場合、今後成果を上げていく生徒がどちらかと言えば、答えははっきりしている。
最良の学びをするためには、今出来がよくないことが不可欠なのだ。
これは多くの人の直感に反する事だ。
しかし、本当にそうだろうか。
例えば、幅広く経験しようとしている人は、専門特化している人から比べれば、その事象に関して言えば、今出来が良くないかもしれないが、
今の時代をよく考えれば、早すぎる専門化は命取りになりかねないことは誰もが知っている。
多くの人は専門化すべきではなく、多様な経験を優先させるべきなのだ。
「計画して学ぶ」から「試して学ぶ」へ。
本書では、自らが研究者となって小さな探究を繰り返すことで、なりたい自分になることをお勧めしている。
世の中には、学生や社会人まで今すぐになりたい自分を決めるよう促されてる人間があまりに多い。
今から思えば、10代でそのようなことを決めるには、経験が足りなさ過ぎるし、ましてやなりたい自分が見つかるわけもない。
本書は、短期的にやりたいことがあるにも関わらず、周りのプレッシャーにより諦めなければならないと思い込んでいる人に、是非読んでほしい。
本書がなりたい自分になる一歩になれば幸いである。
『ロシアン・ルーレットは逃がさない』
「他国の国民をその国内で殺せと命令できるのは、イギリスのことであればとくに、たったひとりしかいない。」リトビネンコは言った。‥‥「その人物は、ロシア連邦大統領ウラジミール・プーチンです」
2006年、ロンドンで悲劇的な事件が起こった。
それは、人類初、個人に向けられた核攻撃による殺人事件であった。
死亡したのは、元FSB(ロシア連邦保安庁)職員で、反プーチン体制派で内部告発者でもあるアレクサンドル・リトビネンコだ。
リトビネンコは、致死量の約20倍〜30倍の放射性ポロニウムを服用させられ、無惨な姿で死亡した。
多量の放射性物質を含んだ彼の死体を焼却した焼却炉は、その後、20年間は幽閉しなければならないほどだったという。
そして、冒頭で引用したリトビネンコの言葉からもわかるように、事件の加害者はロシアであり、プーチンその人なのである。
本書は、そんなプーチン政権による政敵の暗殺の全貌を暴いた渾身のルポルタージュである。
毒殺、撲殺、爆殺、自殺偽装まで、ありとあらゆる手段をつかって政敵を滅ぼす姿からは、ロシアを敵に回した人間はこの世のどこに逃げようと、必ず無惨な死を迎えると確信ができる。
本書には、ソ連崩壊後、一塊の市役所職員でしかなった無名の男が、どのようにしてクレムリンの頂点に立ち、その後、当時蜜月を共にした人たちを、いかにやりたい放題駆逐してきたかを描いた、ノンフィクションだ。
本書を読めば、ロシアという国、そしてプーチンという人間がどのような人間なのかがわかるだろう。
我々日本人が、北方領土問題で相手にしている国は、こんなにも恐ろしい国だったのだ。
もしそれが事実だとしたら、ロシアの新たな首相はギャングの親玉というだけでなく、選挙で勝つために300人近い国民を犠牲にした怪物ということになる。
ソ連崩壊後、KGB(ソ連国家保安委員会)を抜けたプーチンは、当時はまだ一塊の市役所の職員でしかなかった。
彼は、他の政府役人とは違い、汚職を最も嫌う潔癖な人間のように見えた。
しかし、それは表面の顔でしかなく、実際の彼は、KGBという保安機関で学んだありとあらゆる策略を駆使して、全体主義の治安国家ソビエト連邦を再建することに余念がない人間だった。
そして、彼にはロシアという国で権力を握るために、最も重要なことがわかっていた。
それは、「ロシア国民は権力者のまわりで団結する」ということだ。
プーチンは、上手く国家の敵を作ることで、ロシア国民に権力者としての自分をアピールすることに成功したのだ。
本書を読めば、2014年のクリミア併合といった武力侵略行為、そして、トランプ大統領を誕生させたアメリカ大統領選挙への不正介入まで、近年のロシアという国の行動哲学が読み取れるようになるだろう。
ボリスとバドリはエリツィンの「民営化」の競売で、真の価値の何万分の一という価格で驚くほどの数の国営企業を買収し、ほぼ即座に億万長者になった。
ソ連が崩壊し、急速な資本主義国家を目指した当時の大統領エリツィンは、私的なビジネスを禁じていたソ連が抱える四万五千もの国営企業を、真の価値の何万分の一という価格で投げ売りした。
その中には、巨大な石油、ガス、鉱物関係の企業があり、それらを底値で買い付けた一部の資産家たちは、1夜にして億万長者の仲間入りを果たしたという。
彼らが俗にいうオリガルヒ(新興財閥)と呼ばれる人々である。
本書には、彼らの常人離れした華麗な私生活と、死と隣り合わせの過酷な生活が暴かれている。
オリガルヒとしては、近年、イングランドのサッカークラブ「チェルシー」を買収したアブラモビッチ氏などが有名だろうか。
最後に、本書の著者であるハイディ・ブレイクを紹介して締めくくりとしよう。
著者のハイディ・ブレイクは、本書の内容でもあるロシア政府の暗殺に関する調査報告で、2018年のピューリッツァー賞の最終選考にノミネートされた人物だ。
本書を読めばわかるが、ロシア政府に敵対する人間は、弁護士だろうが、フィクサーであろうが、誰でも殺された。
そんな中で、これほど綿密な調査内容を書き下ろしていることには、頭が下がる。
ハイディ氏の語り口は、臨場感たっぷりで、読み進めていると、時に現実の物語であると気づいた時には背筋を凍らされる。
まさにページをめくる手が止まらない一冊だ。
『マインドハッキング』
事の始まりは、2009年のオバマ大統領の誕生だ。
当時、他の候補よりも若くテクノロジーに明るかったオバマは、「イエス・ウィー・キャン!」のメッセージに代表されるような、華麗なブランディング戦略を駆使し、共和党のヒラリー・クリントンを抑えて、第44代アメリカ合衆国大統領に就任した。
オバマが他の候補者よりも突出していたのは、インターネットの活用であり、本書の言葉を借りれば、データを分析し予測するアルゴリズムであった。
そんなオバマ陣営の手法に魅せられ歓喜されたのが、当時18歳でコンピュータオタクだった著者である。
本書は、2016年に起こった世界的な二つの大事件(ブレグジットとトランプ大統領の当選)に関わったケンブリッジ・アナリティカ(CA)の元社員による告発を元にした本である。
CAは、フェイスブックの情報を利用し、有権者の投票行動に影響を与えたとされている。
本書には、実際にどのようにしてフェイスブックの情報を入手し、分析し、有権者を扇動していったのかが生々しく書かれている。
オバマ陣営はデータから意味を読み取って現実の広報戦略へ適用できる。つまり人工知能(AI)を導入していたのだ。ちょっと待ってくれ‥‥‥選挙運動用のAI?有権者に関する情報を貪欲に取り込み、ターゲティングの基準を教えてくれるロボットの誕生?SFの話ではないか?だが、現実に起きていた話だ。
2009年当時は、著者ですら、選挙に勝つためには、メッセージや情熱が重要であり、コンピュータや数字ではないと思っていた。
そのような常識を180度変えたのが、オバマの戦略であり、以降著者は政治の影の面と最も密接なコンピュータ技術者へと成り上がっていく。
そんな著者が、この仕事の潜在価値に気づいたのは(または倫理面での大きな懸念)、SCLでの仕事が大いに関係しているだろう。
SCLとは、「戦略的コミュニケーション研究所」の略で、もっぱら軍部をクライアントとして世界各地で軍事心理戦や影響工作を引き受けてきた組織だ。
パキスタンでは、イスラム過激派のリクルート活動阻止に関わったほか、南スーダンで戦闘員の武装解除・動員解除、中南米で麻薬対策・人身売買対策プロジェクトを手掛けた。
そんなSCLで働きはじめた著者が引き受けた仕事は、例えば「データを使って犯罪に走りそうなトリニダード人を見つけ出したい」という仕事だった。
先進国に比べ脆弱なセキュリティしかもたないトリニダード・トバゴでは、容易に個人の情報にアクセスでき、住民がネット上で何を見ているかを観察することができた(ほとんどがポルノだという)。
まさにこの描写は、SF映画さながらである。
もちろん、覗かれている本人たちは夢にもそう思ってはいない。
そして、こうした恐ろしい出来事が我々にも迫っている。
それが、ブレグジットとトランプ大統領の当選をも成し遂げたフェイスブックの利用である。
ジェシカスはキーボードをたたき、スクリーン上に一覧を表示した。Aという名前のネブラスカ住民の一覧を見せたのである。続いて、そのうちの一つをクリックした。すると、大勢のAの中の一人-女性ーについてのあらゆる個人情報がスクリーン上に出てきた。顔写真、勤務先、自宅、子ども、子どもが通う学校、自家用車ー。
著者によれば、当初、フェイスブックは第三者によるデータ利用について感慨していたと言っている。
それもそのはず、フェイスブックにとって、自らのユーザーを深く理解することは、より多くの利益を生み出せることに他ならないからだ。
また、ユーザーのプライバシーに関してはフェイスブックの管理体制は驚くほど緩かったとも言っている。
先ほどの引用は、著者らがフェイスブックのデータを元に、他の市場調査会社から得られたデータと組み合わせて作成したデータベース上の情報について説明している一場面である。
本書で一番生々しい記述といえば、この後、当該の女性に電話をしてみるという場面だ。
明らかにプライベートな質問に対して、女性は喜んで自分のことについて話し始めた。
これを見る限り、フェイスブック同様にユーザーである我々自身の”データ”への理解にも問題があると言わざる負えない。
多くのテクノロジー企業は、こうした情報の非対称性で膨大な利益を生み出している。
つまり、我々はテクノロジー企業から情報サービスの提供を受け、その見返りとしてより多くの情報を渡しているが、その使い道については、ほとんど知らされていないという事実だ。
現在のようなコロナ禍においては、オンラインで過ごすことが大半を占めているという方も多いことだろう。
本書を読んで、ただただ怖いというだけでは済まされない。
あなたもデジタルツールの利用者の1人として、本書は絶対に読んでおくべきだ。
『Learn or Die 死ぬ気で学べ』
現在、日本で唯一のユニコーン企業として知られているプリファード・ネットワークス(以下、PFN)という会社をご存知だろうか。
ユニコーン企業とは、企業価値の時価評価額が10億ドル(約1,065億円)以上の非上場企業のことを言う。
本書では、この謎の集団とも呼ばれたPFNについて、同社の代表取締役社長である西川徹氏と副社長の岡野原大輔氏が満を持して、その組織の真髄や手掛けている事業、今後の展望まで、余すことなく語り尽くす。
ここでPFNについて簡単におさらいしておこう。
なお、PFNについては、すでにネット上では数多くの関連記事が挙げられ、その道の専門家が詳しい分析を行なっているため、詳しく知りたい方はそちらを読むことをお勧めする。
PFNのスタートは、その前身ともいえるプリファード・インフラストラクチャー(以下、PFI)が設立された 2006年にまで遡る。
PFIは、当時東京大学大学院に在学していた西川徹氏や岡野原大輔氏ら、東京大学、京都大学の6人の学生によって設立された。
その後、2014年にこのPFIからスピンアウトし、ディープラーニングを活用したソフトウェアの研究開発を推進する目的で新たにPFNを立ち上げた。
PFIの立ち上げメンバーは全員が技術者であり、その中には2006年のACM国際大学対抗プログラミングコンテストに出場したメンバーも含まれていることから、PFNはPFI時代から優れた技術者集団だと認知されていた。
また、設立時から一貫して「他社からの受託案件を一切請けず、自社開発に注力」するという方針を崩さなかった。
下請けではなく、共同開発という形で他社と手を結び、高いレベルで研究開発に取り組める案件だけを受けてきたという。
今では、NTTやトヨタ、ファナック、DeNAをはじめ、日本だけではなくアメリカの企業ともパートナーシップを結ぶなど、その活動は多岐にわたっている。
さらには、博報堂DYホールディングス、日立製作所、みずほ銀行、三井物産、中外製薬、東京エレクトロンなど、多くの会社から出資を受けており、今後も目が離せないスタートアップ企業である。
といった具合に、まさに破格の勢いで成長を遂げてきたPFNという企業から、はたして我々が学べることがあるだろうか。
私が思うに、PFNの哲学は、同じ企業という目線というよりも、一人の人間の生き方として気づきを与えてくれると思う。
例えば、”Learn or Die(死ぬ気で学べ)”という行動規範は、PFNの代名詞とも呼べるもので、私も一番気に入っているものだ。
我々の最大の価値は人やチームにある。人やチームが持っている知識やノウハウ、物事を実行できる能力こそが競争力だ。知識は資産のようにストックできるものではない。常に新しい情報を取り入れ続け、改善し続けなければならない。
知識はストックできない、だからこそ学び続けることが重要である。
これは、技術の世界では新しいことを常に学んでいかなければあっという間に取り残されてしまうという危機感から端を発しているのだろうが、技術屋に限った話ではないはずだ。
この言葉は、私にとても勇気を与えてくれる。
東大卒だろうが、医学部卒だろうが、そこで努力をやめてしまえば、それなりの結果しか得られないのだ。
確かに生まれ持った差はあるかもしれないが、貪欲に学び続けることの重要さを教えてくれる。
そして、もう1つ、上述した「他社からの受託案件を一切請けず、自社開発に注力」といった姿勢にもつながる行動規範として、"Motivation-Driven(熱意を元に)"という行動規範を紹介しよう。
我々が考えるモチベーションとは、この3番目のレイヤーだ。自分たちが「これが大事だ」と思えることで目標を達成する。そういう気持ちを持てるような仕事をしようという意味でもある。外部から「これをやってください」と言われてこなすようでは、期待を超える成果は出せない。求められ、決められた仕様に基づいて作るだけで終わってしまう。
一見、この行動規範は、やりたいことだけをやればいいと謳っているようにも聞こえるが、実はそうではない。
ここでいう自己実現というのは3番目のモチベーションで、1番目はサバイバル、2番目は報酬と罰というモチベーションの段階がある。
1番目、2番目は外部に評価軸があるが、3番目は自分の中に価値基準が存在し、自分の考えをもとに判断を下してよい。
PFNでは3番目のモチベーションをいかに高められるかに重きを置いていて、こうした高いモチベーションを持てる社内環境を作ることを目指している。
あなたがもしマネジャーという立場であるならば、こうした社員のモチベーションに合わせたフォローを考えてみるもいいかもしれない。
また、本書の見所としては、第5章の岡野原氏による深層学習の説明だ。
さすが論文オタクというだけあって、どのAI本の解説よりも非常にわかりやすく書かれている。
私が本書を読むにあたって、一番付箋をつけたところでもある。
ここを読むだけでも本書を手に取る意味は大いにあると言える。
本書を手に取るまでは、PFNの存在は知らなかった。
それが、パーソナルロボットを実現するだとか、500年後も生きて次の時代を見たいだとか、そんな大そうな夢を語る日本企業がいることは驚きであった。
しかし、本書を読んでそのような未来が本当に実現するのではないかと胸を膨らませてしまった。
ぜひ多くの方に手に取ってもらい、同じ期待を抱いて欲しいと思う。
『[NHKスペシャル] 人体Ⅱ 遺伝子』
本書は、2019年5月に放送されたNHKスペシャル『シリーズ「人体」Ⅱ 遺伝子』をベースに、遺伝子研究の最前線の成果を紹介したものである。
書籍化にあたっては、番組で紹介しきれなかった最先端の情報も数多く含み、美しい写真と共に全2集に分け200ページほどの内容にまとめられている。
第1集は、「あなたの中の宝物”トレジャーDNA」と題し、これまでゲノム上の”ジャンク(ゴミ)”と呼ばれていた領域において明かされている驚きの研究成果を紹介する。
この”ジャンク”領域こそが、あなたと私とを区別し、唯一無二の存在にしている根拠であるとされている。
第2集は、エピジェネティクス(後世遺伝学)という比較的新しくできた学問分野の最前線に迫る。
エピジェネティクスとは、DNAそのものは変化せずに、遺伝子機能の制御が変化するというものだ。
こうした仕組みのおかげで、我々は子孫に素早くより良い恩恵を与えることができるとされている。
現状、全ゲノム解析では完全に日本は遅れをとり、今、私たちがその解析技術で知らず知らずのうちに頼っているのはアメリカと中国の企業だ
それでは、世界の遺伝子研究がどのような方向に進んでいるのかを見てみよう。
近年の研究では、受精卵が誕生する際に、母親のゲノムにも、父親のゲノムにも含まれない、その子だけが持つまったく新しい変異が70個程度生じることがわかっている。
また、そのような変異のほとんどが、これまで”ジャンク”と呼ばれていた領域に集中しているということもわかっている。
そして、本書によれば、その変異には人類を救う重大な変異がたくさん眠っているという。
近年、解析技術が飛躍的に進歩したことにより、世界中の研究者が個人のゲノム情報を集め、分析することに力を注いでいる
その最前線を行っているのが、中国やアメリカの企業なのだ。
パウラさんのようにSGLT2がうまくはたらかなくても、パウラさんと同様に健康に暮らしている人たちが存在することは、薬剤開発にあたって大きなアドバンテージになる
パウラさんとは、生まれつきあるタンパク質(SGLT2)を作ることができない女性として本書に登場する人物だ。
このパウラさんのように、ある重大な欠損を抱えながらも健康な人と変わらずに生活ができている存在は、薬剤開発の方向性を大きく決定づけることになる。
薬剤開発では、通常、その薬の影響により予想外の害が起こらないかどうか、非常に長い年月をかけて検証する必要がある。
しかし、パウラさんのような存在は、例えば、SGLT2タンパク質の機能を阻害する薬を作ろうとする場合、その目論見は初めからある程度の有意性があることを意味している。
つまり、このように予め研究開発の方向性が与えられていることは、そのまま医療に直結し、さらに言えば、医療費に直結することにもなるのだ。
自国民のゲノム情報を収集し、分析することにはこうした価値がある。
特に、人口減少にもかかわらず社会保険給付費用が右肩上がりに上昇している日本においては急務である。
本書には、遺伝子研究の最前線の紹介だけではなく、生命科学の基本とも呼べる、細胞やDNAの構造、セントラルドグマといった仕組みが最新のCG技術によって再現されており(本書では写真だが)、文章で表現されるよりもはるかにわかりやすい。
これまで生命科学に対して難しい印象を抱いてきた読者にも、初めの1冊としてお勧めしたい内容となっている。
もちろん最先端の情報を知りたいという読者でも読んで損しない内容となっている。
新型コロナウイルスの流行の最中、ウイルスの性質やワクチン開発といった研究において、ますます遺伝子研究は注目されており、その成果に人類の未来がかかっていると言っても過言ではない。
誰もが科学に興味を持つ1冊として本書を薦めたい。