『生命科学クライシス』

「巨人の方の上に立つ」とは科学界の巨匠アイザック・ニュートンの言葉だ。現代の科学は、そうした先人たちの知識の上に成り立っている。しかし、本来厳密であるべき科学が、いつの日からか厳密性とはかけ離れ、余多の手戻りや失敗を引き起こし、科学の進歩を大幅に遅らせているとしたら驚きではないだろうか。本書は、生命科学の世界でおこっている驚くべき実態をあらわにする衝撃的な一冊である。

 

通常、研究の成果は論文にまとめられ、学術雑誌に発表される(その数、毎年約100万件)。しかし、本書によれば、そうした研究のほとんどに「再現性」がないことが判明したという。「再現性」とは、研究をした当人たち以外の第三者が論文に明示された方法通りに実験をおこなった場合、同様の結果が得られるかということである。本書では、ある製薬企業が独創的とおぼしき53件の研究の再現性を確認したところ、再現できたのはそのうちわずか6件と、1割にも満たなかったそうだ。こうした事態は当然、企業活動を遅延させるばかりか、生命科学自体の進歩をも止めてしまっている。

 

「再現性」がない研究はなぜこれほどまでに多いのだろうか。本書では、基礎研究で使われる培養細胞などの実験材料の問題や、人間の疾患の代わりとして用いる動物モデルの問題をあげている。例えば、動物モデルしてよく用いられているマウス一つとっても、マウスが雄なのか雌なのかはもちろん、実験者がよくラジオや音楽を流していたか、マウスに触れる際は手袋をしていたか、はたまた実験者が男性なのか女性なのかによっても実験結果が変わる場合があるという。そもそも同じ齧歯類でも、ある薬がマウスとラットでどのくらい効くかを調べたところ、同じ結論が出るのは60%にとどまるという。つまり、たとえマウスの結果からラットの結果をそこそこ予測できたとしても、人間についてどこまで予測できるかはごく謙虚に構える必要があるということだ。驚くべきことはこうした注意が最近になってから気を付けられようになったことだ。

 

本書では「再現性」がない研究として、ほかにも、乳がんの細胞株と思って研究していたサンプルが、いつのまにか混入した不死化細胞にとって代わり、自分の思っている研究対象ではない細胞を研究してしまったことや、質量分析装置から得られた有力なデータが、実はサンプルを別々の日に機械にかけてできたただの誤差だった(本書ではこれをバッチ効果と呼んでいる)など衝撃的な事実が紹介されている。最先端のことをするには失敗がつきものというが、それにしてもどうなのだろうと思ってしまう。

 

本書は研究者や研究者を目指す方にお勧めであるが、ぜひそれ以外の方にも読んでもらいたい一冊である。生命科学は、医学や医療など人命に直接関わる分野であり、日々数多くの新しい研究成果が生まれている分野だ。ネットの発展した今の時代では、健康や医療に関するさまざまな情報が錯誤している。だからこそ、「この研究は再現性があるのか」、「間違いではないだろうか」といった具合に、私達は世の中にあふれている情報を疑う姿勢が大切だ。本書はその姿勢をもつヒントを与えてくれるはずだ。

 

 

生命科学クライシス―新薬開発の危ない現場

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