『撃ち落とされたエイズの巨星』一人の人間が多くの命を救う奇跡の物語

本書は、エイズ撲滅に関し、多大な貢献を果たしたユップ・ランゲ博士(以下、ユップ博士)について、その功績を称えた本である。

 

ユップ博士は、2014年7月、オーストラリアのメルボルンで開催される予定だった第20回国際エイズ学会に向かう最中、マレーシア航空MH17便撃墜事件に遭遇し、帰らぬ人となった。

この事件は親ロシア派武装組織による誤爆だった。武装組織は撃ち落とす機体を間違えたのだ。ユップ博士を含む乗客298名全員が亡くなるという悲劇であった。

一般的にこうした人物伝は、その人物の生涯に焦点を当て、話が展開されることが多い。

本書もそうしたユップ博士の生涯になぞらえ話が進んでいくが、本書は一人の人間の人物伝に留まらず、エイズというもの、その最新の動向や起源について、まとまった知見を得ることができる良書となっている。

 

エイズというのは、言うまでもなく恐ろしい病である。

一昔前は、エイズは死刑宣告に等しいのものだった。

患者は、免疫系が完全に破壊され、通常若い人の病気の原因にはならないどこにでもいるような微生物によって、いとも簡単に苦しめられる。

感染した多くの若い男性たちは、乾いた咳に苦しみ、下痢の汚物にまみれ、死を待つしかなかった。

エイズの原因であるHIVウイルスは、目まぐるしい速さで進化を遂げる。その速度があまりにも速いため、一人の感染者の体内には、同じウイルスの異型が100種類あっても不思議ではないという。

それらはすべて同じHIVであるにも関わらず、同じ薬を投与しても同じように効くとは限らない。それぐらい違うのだ。

 

しかし、エイズ自体は、抗レトロウイルス薬による治療法の導入により、今ではすでに完治できる病となっている。

だが、完治できる病であるにもかかわらずいまだに多くの人が亡くなっているのが現実である。

ユップ博士は、そうしたエイズ治療薬の普及推進運動のパイオニアとして、多くの既得階級を相手に、世界中に薬を普及させようと奮起した人物であった。

今やその道では有名になったユップ博士の決まり文句がある。

 

アフリカのどんなへんぴな地域にも冷えたコカ・コーラやビールを届けることができるなら、薬を届けることも不可能ではないはずだ

 

このようにエイズは単なる感染症ではない。

たった一つの病気に、政治、公衆衛生、臨床医療、そして社会不安が絡んだ複雑性を有している。

だからこそ、ユップ博士が夢見たエイズ撲滅は並大抵のことではない。

実際、私たち人類の歴史の中で撲滅できた感染症は、天然痘だけであるというのがそれを物語っている。

 

ユップ博士は、治療薬の普及活動だけでなく、学術面でもエイズに関し多大な功績を残している。

博士は、妊婦から胎児へのHIV感染が薬で予防できることを実証する臨床試験を初めて行った人物でもある。

そして、HIVウイルスの構造を明らかにし、その弱点を突き止めることに大きく貢献した。

本書によれば、1980年代、当時博士課程のユップ博士らが行った研究の中には、HIVエイズに関するその後の研究に大きな影響力を与える発見が多く含まれているという。

ユップ博士らは、それから30年にわたって、400本近い論文を発表し、何百人もの人々の命を救うことに貢献したのである。

 

エイズという病気は、完治できる現在を知っている人間と、完治できる前を知っている人間が現代に共存するという点で、数少ない病気ではないだろうか。

ユップ博士は、エイズの恐ろしさを肌で感じた人物であり、その撲滅に人生を捧げた人物でもあった。

そうした一人の人間が未来に残そうとした、または託そうとした物語を、我々は紡いでいく必要があるはずだ。

その男は、全世界3790万人ものHIVと共に生きている人々の希望であった。彼らの希望を決して止めてはならない。

本書は一人の人間が多くの命を救うことができるという奇跡を教えてくれる本である。