『ヤクザときどきピアノ』封印した己の渇望を解き放て!
本書は、約40年越しに起きた感動の物語である。
ある中年の男が今まで諦めかけていたことに、ある日突然挑戦するといった話はよくある話である。
定年を迎え、仕事で忙しくてできなかった趣味に挑戦する人も多いことだろう。
だが、本書は挑戦した人物と挑戦する目標にギャップがあり過ぎてタイトルを見ただけで「本書は絶対面白い!」と思い手にとってしまった。
タイトル「ヤクザときどきピアノ」にもある通り、本書はヤクザものを中心に執筆するライターである著者が52歳にして通い始めたピアノ教室での出来事について書いたノンフィクションである。
音楽に魅了されたことがない人はいないだろう。
同じく、これまでピアノを弾いてみたいと思わなかった人もいないのではないだろうか。
それもそのはず、ピアノはベートーヴェンやモーツァルトが生きた時代から姿形を変えず、今でもなおその音色一つで多くの人を魅了する歴史ある楽器の一つだ。
そうであるが故に、十代の前半でさえ幼少期にはじめた人間とは歴然と埋められない差が存在するほど修練が物を言う楽器でもある。
だから、多くの人は弾きたいという気持ちを諦めて大人になる。
著者もそんな大人の一人だった。
だが、著者は他の多くの大人と比べ、ピアノに対する想いの強さと少し往生際が悪かったようだ。
レッスンは冒険であり、レジスタンスだ。ピアノは人生に抗うための武器になる。俺は反逆する。残酷で理不尽な世の中を、楽しんで死ぬ。
そう息込んだ著者は、躁病特有のハイなテンションを利用し早速ピアノ教室探しを始める。
ライターであり尚且つ取材対象はヤクザ中心という著者は、普段から人を見る目が養われているのか教室選びも斬新である。
「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです。」
ピアノ教室の電話番号をプリントアウトし赤ペンを手に片っ端から電話をして質問するのはもっぱらこの一言だけだ。
無論、大半の教室からは丁重に断られアポ取りに丸二日を費やす羽目となった。
それもそのはず、昨今は防音の個室で二人きりになることを目的とするトンデモな受講生も増えていることから、
特に中年の男性受講生を受け入れたがらない教室も増えているようだ。
著者がそうまでして求めたのは、自分と相性が合うピアノ講師との出会いだった。
著者と相性が合う人も少ないのではと思ってしまうが、そんな中で出会ったのが運命の人であるレイコ先生だ。
このレイコ先生こそ目利きの効く著者に見出されて然るべき魅力たっぷりの人物である。
レイコ先生も、自分探しとか自己実現とかいうふんわりとした理由を受け付けない、硬質な専門教育を受けてきた雰囲気をまとっている。人を殺したことのあるヤクザが特別なオーラを放っているのに似ている。
まさに日頃からヤクザ相手に取材をしている著者らしい形容の仕方である。
本書の言葉を借りれば、レイコ先生の一つ一つの言葉の背後にぶっちぎりの叩き上げ感ともいうべき、こちらが圧倒される何かが存在する。
本書を読めば、間違いなく我々が抱いている「ピアノの先生」という固定観念が崩壊するはずだ。
ピアノの先生はプロになる夢を諦めた敗北者がなる職業ではない。
芸術の力を信じて止まない人たちから成る立派な職業なのだと実感できるだろう。
レイコ先生も大したものだが、著者自身の行動力には驚かされる。
カメラマンやライターを職業としてきたからこそ、常人よりも物怖じしない積極性があることはうなずけるのだが、
著者を動かしているのは「知りたい」「達成したい」といった自らの心から生じる渇望である。
著者は、自分が知りたいこと達成したいことに驚くほど忠実に行動する。
本書は私たち日本人が忘れてしまった「図々しさ」ともいうべき、自ら行動することの重要さを思い出させてくれる本である。